バスティアニーニのヴェルディは、ヴェルディがもし生きていてバスティアニーニのレナートやルーナ伯爵、ロドリーゴの歌唱を聴いたとすると、自分の作った人物が魂を持って歌い出したと思ったに違いないとよく表現される。ヴェルディを11演目歌った。彼が舞台で演じたヴェルディ作品は幸運なことに『オテッロ』以外全部録音が残っている。『リゴレット』『イル・トロヴァトーレ』『椿姫』『仮面舞踏会』『運命の力』『ドン・カルロ』『アイーダ』これらはスタジオ録音とライヴ録音にも残されている。また初期の『ナブッコ』『エルナーニ』『レニャーノの戦い』はライヴ盤だけだが残っている。
『オテッロ』はマリオ・デル・モナコ、レナータ・テバルディとヘルベルト・フォン・カラヤン指揮のスタジオ録音盤があるが、当初バスティアニーニのイアーゴでスタジオ録音が開始されていた。完成できていれば名盤として称賛され、楽しめたものをと残念なこと極まりない。 当時の録音に携わったジョン・カルショーが<カラヤンと仕事をして>という文を残し、カラヤンの気難しさと、音に拘り大掛かりな装置で嵐のシーン録音の様子が紹介されている。またバスティアニーニに不満を抱き、プロッティに変更された過程が僅かに書かれていた。長年、日本のオペラファンの中で、原文から日本語訳された内容だけに留まらず、話しを脚色しまた憶測で語られてきたことが残念だがあった。参考に<カラヤンと仕事をして>という文で、バスティアニーニに関連する文を掲載する。
ジョン・カルショー著 「レコードはまっすぐに」 あるプロデューサーの回想 第27章《カラヤンのオテロ》の中でバスティアニーニに触れられている部分がある。 学習研究社より山崎浩太郎訳で出版されている。ここで掲載する文は原文の英語からイタリア語に訳された文を刈米興子氏が日本語に試訳された文である。途中の空欄部はバスティアニーニと関連のない部分のため省略させて頂いた。
カラヤンと仕事をして
G・ヴェルディのオテッロの録音
1961年前半の音楽上もっとも重要な出来事がヴェルディのオテッロの初めてのステレオ録音だったことは疑いない。ヘルベルト・フォン・カラヤンの指揮の下、テバルディ、デル・モナコ、バスティアニーニを含むキャストで、ウィーンで実施された。 バスティアニーニは戦後のイタリアにおける最高クラスの美声バリトンとされていた。その彼をヤーゴのような悪役のために選ぶことは、当初奇異に見えた。だがバスティアニーニはすでに“ラ・トラヴィアータ”のジェルモンのような適役ばかりを歌うことに飽きていた。ことによると、キャリアの初期にバスからバリトンに移ったように、転進を考え始めていたのかもしれない。ヤーゴを歌うこと、とりわけカラヤンの指揮で歌うことが最大の願望だと言っていたから、この役に選ばれたのは至極当然だった。ティート・ゴッビは空いていなかったので、その機会をバスティアニーニに提供することは妥当に見えた。克服しなければならないのは別の問題だった。音楽上ではなく技術面でのことだ。たとえば、ヴェルディは第二幕でコルナムーザという楽器を使っている(といっても、そのパートはオーボエでも演奏できる)。我々イギリス人はそれがどんなものか、誰も知らなかった。ようやくゴードン・パリーがヴェネツィアで一つ探し当てることに成功し、英語で“イタリアン・バグパイプ”と呼ばれる楽器であることが判明した。それでも幕開きの混乱した場面で、大きな困難にぶつかった。多様な遠近法の中でソリストたちやコーラスを使うことばかりではなく、雷鳴と大砲の一撃、オルガンを必要としたことだ。その上、カラヤンは嵐の効果として風の音を要求した。それは劇場の上演で使用した旗が風にはためく音になるはずだった。スコアには指定されていないが、私はこの要求に反対しなかった。ただしいくら払っても足りないほどの注意をもって臨んだ。大砲の一撃は予備として保管されていた録音装置のテープにあったものを使い、“テンポに遅れず”撃たねばならなかった。なぜなら、1961年には同時録音後の効果を得ることがまだ容易ではなかったのである。これらは音楽が演奏されているうちに重なる必要があった。一つ間違えば、メインスタジオで働く二百人以上のスタッフが最初からやり直すことになる。 大砲を発射させるのはイタリア人プロンプターの一人にゆだねられた。第二十七小節の三拍目の寸前に録音装置を操作し、それから装置を止めてテープを交換したあと、もう一度発射しなければならないからだ。責任の重圧から来る緊張はミスを誘発した。最初のテストでは、大砲を撃つのが早すぎた。二番目と三番目では遅すぎた。そのつど不運なことに、カラヤンと彼の仲間全員が足止めされた。 オテッロの冒頭場面の演奏は誰にとっても容易ではない。これらの不手際なスタートにカラヤンがいらだったのは理解できる。彼はプロンプターに、君の計数能力をもう信頼できないから、今度は僕がボタンを押す正確なタイミングを教えると言った。プロンプターはほっとした様子になり、我々は幕開き部分の四度目の演奏を始めた。カラヤンはボタンの押し忘れを避けるため早めに合図を出し、大砲は完全なタイミングで発射された。全員が安堵の吐息をついた。ところが、大砲がだしぬけにまた発射した。我々のイタリア人は得意な気持ちから録音を止め忘れていたので、みんなが最初からやり直す羽目になった。もし私が装置にかかわらないという自らのルールをすでに破ってオルガンの音をほかにもう一台ある装置にいれることを担当していなければ、録音装置を自分で操作していただろう。ゴードン・パーティとジミー・ブラウンはもう音量調節装置の雑多な指示に拘束されていた。ゾフィエンザールにオルガンが一台もない事実を別にしても、オルガンのことでも問題があった。楽器自体についてではなく、ド、ドシャープ、レの三度の音階の中で五十ページ以上、言い換えれば、約八分にわたって持続する長音のことであった。ヴェルディは戸外の嵐を表現するごろごろという低音をはっきりさせるよりも、どちらかといえば感じさせるほうを望んだだろう。私たちはそう判断した。彼が主に目指すものは、積極的なものよりも消極的なものに思えた。その理由で、もし観客がその音に気づかないとしても、オテッロが凱旋を遂げる直前まで雷雨を続けるより冒頭だけでやめるほうが望ましい。この手法は音楽が絡み合う部分よりもいっそう効果的だが、劇場ではめったに採用されない。あるいはまったくなおざりにされるか、電子音で代用される。したがって我々が望んだのは六十四管の本物のオルガンだった。我々の知っている、それに適合する唯一のものは、リバプールのイギリス国教会の大聖堂にある不完全な楽器だった。その教会のオルガン奏者のノエル・ロースソーンを知っていたのは幸運だった。彼は長音を録音してもいいと言った。しかしそれがどれだけ続き、どのように響かなければならないかが明らかになると、当然のことに、録音できる時間は真夜中しかないと告げた。
中略
テバルディとデル・モナコは、カラヤンの前では模範的なふるまいをした。というのは、彼が二人の気分の急変にほとんど注意を払わないのを知っていたのが主な理由だった。二人は声に“従う”カラヤンの異例の能力、単純な伴奏でもっとも顕著に示される抑制された柔軟性ともいえるものに感嘆した。だが同時に、彼がその気になれば呼吸できないほどテンポを落とし、フレーズを広げて自分たちを苦しめることも知っていた。オペラの指揮者として、カラヤンは打ち負かせない敵である歌手に対して非常に理解のある同盟者になることができた。バスティアニーニが体調不良を口実にしてリハーサルやセッションに現れなくなったとき、やる気のなさの最初の兆候ではないかと疑われた。当初、彼に回復の時間を与えるためにセッションを予定しなおすことは困難ではなかった。だがやがて明らかになったのは、彼が自分のパートを理解していないことだった(彼ほど聡明な人にしては驚くべきことだが)。最初カラヤンは辛抱したが、それもあまり長続きしなかった。彼はうらやましいほど自己訓練を強制するタイプの指揮者である。したがって、自分と仕事をする人間にせめてそう努力することを期待する。残念ながら、バスティアニーニは自分の準備不足を、悪げのなさを装ってごまかそうとした。作品の物語も知らなかったと言い張りさえした。「このハンカチの話って何ですか?」あるとき、彼は尋ねた。“ある夜のこと”を歌うときになって、断絶は起こった。この歌は譜面上は簡単で、それほど難しいパッセージはない。いくつかのテストとして、最初の一フレーズかニフレーズ演奏したあと、カラヤンは中断した。当然ながら、声とオーケストラが一致しなかったからだ。すると、バスティアニーニはカラヤンのテンポが明確でないと言う非常識な失敗を犯した。それはオーケストラ全員の前で、カラヤンを笑いものにすることだった。いくつかのパッセージでカラヤンのテンポが明確でないことはあった。たとえば“イ・ピアネティ・ディ・ホルスト”の冒頭部分。しかしオペラのレパートリーでカラヤンをとがめるものは誰もいなかった。さらに二度の試みのあと、カラヤンはそのパッセージをほっておいて先に進んだ。セッションが終わると、カラヤンはバスティアニーニをヤーゴ役から降ろして、代わりに当時ウィーンにいたアルド・プロッティを使いたいと私に言った。プロッティは十年ほど前にエレーデ指揮、テバルディやデル・モナコと共演の初盤でこの役を演じたが、あまりぱっとしなかった。誰も、とりわけアメリカの関係者は、プロッティの起用に乗り気ではなかった。だがウィーンでは選択の余地がほとんどなく、プロッティを雇わなければ、録音を放棄するしかなかった(実際には、その十年間にプロッティはずっと上達していて、歌唱は並外れたものでないにしても、適切だった)。バスティアニーニに引導を渡すいやな役目は私の任務だった。彼はショックから泥酔した。そんな立場に置かれるにはあまりに感じのよい男だった。私がしばしば考えるのは、わずか数年後に彼の命を奪う不治の癌がすでにそのころから始まっていたのを、本人は自覚していなかったことだ。そのときまで、彼は依然として最盛期にあった。バスティアニーニが病気であることを、我々の誰一人として想像しなかったのは確かだ。それでも、彼が初めての役柄をウィーンで歌う場合の歌唱スタイルと違っていることは知っていた。
以上がカルショーの触れている部分の試訳である。
この本では触れられていないが、カラヤンはこの後も歌手と結構悶着を起こしていたことも事実である。カラヤンとの録音時は歌手たちも気を遣っていた様子が文面から感じられる。カラヤンに対して誰も口出しはできなかった。のちに彼の死を知ったが、録音当時は誰も病気のことなどイメージしていなかった、それでも初めての役を歌う時と違っていた、と文にある。バスティアニーニはこの当時多忙であったが、オペラ公演は全て素晴らしい舞台を重ねていた。彼については多くの指揮者・歌手が語るように、彼は常にオペラをマスターし、時間通りに来て口数は少ないが、しかし感じが良く、礼儀正しく、舞台が終わると挨拶を済ませて帰る人であったことが語られている。この録音に際して、彼はとりわけイアーゴを歌うことを望んでいた。だがこの本によるとカラヤンの不興を買ったようだった。疑問は残る。彼の今までの業績や語り継がれてきた証言からは、彼が勉強不足であったことも不可解である。しかし、バスティアニーニは多忙と疲労、そしてまだ認識していなかった病気から来る体調不良などにより、彼にしては珍しく録音に備えられなかったのかもしれなかったのではと想像できる可能性がある。このような準備不足やキャンセル等のアクシデントめいた話しは彼にはなかったことだったのだが。この録音を降りて彼は相当嫌な思いをしたようだった。1957年、1958年からこの1961年までの数年をあの異常なハードスケジュールをこなしてきた。1958年では新たに6つのオペラも歌っていたほどだった。疲れは溜まるが断ることなど出来なかった中で、舞台をこなしてきたのも、疲れの心配よりも歌うこと、即ち舞台に完璧を求めてやり遂げる責任感と芸術への達成感からであっただろうと考える。スタジオ録音でも同様であった。彼の残したスタジオ録音はバスティアニーニの不世出のバリトンを表出していて、どれも素晴らしい。彼は確かに『オテッロ』への執着があったはずだ。だが録音に必要な要素が、彼の思いと現実の状況でかけ離れてしまい、彼のオペラ芸術記録の中にイアーゴを残せなくなってしまった。歌手人生において新たな苦難の始まり、悲劇の前触れであったのかもしれなかった。
ボアーニョの著書「ETTORE BASTIANINI」には、不思議だがこの録音時のことは何も触れられていない。カラヤンとの関係では最初にザルツブルク、ついでウィーンでカラヤンお気に入りの一人となり、国立歌劇場での贔屓の歌手となっていった、とある。またバスティアニーニは『オテッロ』の公演機会が1965年カイロで1回しかなかったが、その新聞批評は絶賛されていた、という記述等である。 シエナのヌオーヴァ・イッマージネ出版社から出ている「ETTORE BASTIANINI」では、オーストリアの聴衆の項でこの『オテッロ』録音時についての記述があった。 デッカでカラヤンの元で録音を開始したが、何かの不都合が起こりイアーゴの役を降りた。バスティアニーニは極端に控えめな人柄だったので、撤退の理由を明らかにしたとは考えられないが、カラヤンに意義を唱えた結果ではないか、という人もいたようだ。だがどのような考えの違いなのだろうか。バスティアニーニはイアーゴ役に執着していたことは、1度だけしか機会がなかったけれど、別人のようにやつれてもカイロで演じ成功した事実が示している。1962年(1963年も)の夏にカラヤンはザルツブルク音楽祭で大事な演目にバスティアニーニを出演させている。何か二人にトラブルがあったようには考えられないのではないだろうか、という記述でこの当時のことが紹介されていた。(刈米興子氏試訳)
筆者はカルショーの文の方がその場にいた人の視点でより真実味があると思えるが、バスティアニーニの録音が消えたことがなによりも惜しいことだった。バスティアニーニが1957年、1962年のコンサートで「イアーゴの信条」を歌った音源が残っている。いずれも素晴らしい美声で彼しか出来ない歌いまわしの巧さ、旋律がまるで身にぴったりくっついているように彼の声に添っている。人物設定像らしい暗い屈折した人間像が彼の深い陰影ある声で表現されている。時に恐ろしいくらい底知れぬ心根の悪さが光り、緊張感が漂う。すると最後にオテッロを嘲笑し、自らを鼓舞するように、思いきった大きな美声の嘲り笑う声で締めくくられる。全曲バスティアニーニは自在にイアーゴを掌中の玉のごとくに歌えたであろう。作曲者の意図や理想を超える歌唱を成し遂げてしまうバスティアニーニの才能を十分知っている私達は、「クレード」(イアーゴの信条)を聴くだけで、イアーゴはおそらく彼のレナート、ルーナ伯爵、ロドリーゴのような卓越したレパートリーとして、体現してくれることは容易に予想がつくのだが。
しかしこの後もバスティアニーニはウィーン、イタリア、アメリカでも多くの舞台をこなし、カラヤンとも共に仕事をしていた。ウィーン国立歌劇場では1965年の4月まであれほど多くの回数に出演し、しかもカラヤン自身もバスティアニーニの演目で指揮もしていた。 数年前からカラヤンのウィーン国立歌劇場とイタリア人歌手達との蜜月的な出演が続いていた延長線上にこの録音があったのだった。
1950年代半ば頃カラヤンはイタリアオペラをウィーンで積極的に上演し指揮をしていた。ウィーンではイタリオペラはドイツ語でドイツ系の歌手達が歌い演じていた。そこにイタリア人大歌手達をどっと招き入れ、毎夜劇場のプログラムを飾った。バスティアニーニは熱狂的に迎えられ愛され続けたことが、ボアーニョやリッツァカーサ編著による本からも十分読み取れる。レナータ・テバルディ、アントニエッタ・ステッラ、フェードラ・バルビエーリ、ジュリエッタ・シミオナート、フランコ・コレッリ、カルロ・ベルゴンツィ、チェーザレ・シェピ、ボリス・クリストフなどのスター歌手とオーストリアやドイツの人気スター歌手達、レオニー・レズニック、セーナ・ユリナッチ、ヒルデ・ギューデン、クリスタ・ルードヴィッヒ、ワルター・ベリー、ハンス・ホッターなどの共演で公演が繰り広げられていた。ビルギット・ニルソン、レオンタイン・プライスなどもウィーンやスカラ座でも見られた。
研究会では当時バスティアニーニと驚くほど多数会に亘って舞台で共演していたジュリエッタ・シミオナートに、彼女は当事者ではないが『オテッロ』スタジオ録音でバスティアニーニの出演取りやめについて、何かご存知であればと2001年10月彼女のご自宅で直接お伺いしたが、全くご存知ではなかった。
ヴェルディが求めたバリトン像をバスティアニーニほど美声で歌い表現し、存在感を示した歌手が、あのイタリアオペラ黄金期に他に誰ができたであろうか。
筆者が録音から聴けたのはティタ・ルッフォからレナード・ウオーレン、ロバート・メリル、ティト・ゴッビ、ジーノ・ベーキ、ジュゼッペ・タッディ、アルド・プロッティ、マリオ・セレーニ、ピエロ・カプッチッリ、シェリル・ミルンズ、レナート・ブルゾン、レオ・ヌッチ・・・等で、まだ活躍している歌手達もいる。声は美声だが単調である人、美声で表現もあるが悲しさなど感じられず人を惹きつけられない人、美声だがまるで抑揚のない、何を聞いても同じような歌唱しか出来ない人、声が単調、単色でしかも声が硬い人、美声で柔らかい声だが声量に欠ける人、重厚と言われるがあくがあって多くの役はあまりこなせない上、声は余り通らない人・・・と、どのバリトンも幾つかの欠けた部分を感じる。共通するのはそれぞれ良い声を持った大歌手で大活躍をしていたことだ。
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