大阪フェスティバルホールの思い出
フェスティバルホールは1958年(昭和33年)4月に開館し、音響の良さと豪華さから「音楽の殿堂」と言われ、国内外のオーケストラ、オペラ、アーティストを数多く迎え、長く音楽ファンに愛され続けてきました。
しかし、朝日新聞グループのビル建て替え工事に伴い、このホールは2009年春から解体され2013年に新ホールとして完成される予定です。
12月30日の大阪フィルハーモニー交響楽団「第9シンフォニーの夕べ」(大植英次指揮)の公演が最後で一旦閉館となります。
関西方面の方は勿論九州、四国、中国地方や名古屋、東京方面からも長い歳月に亘ってホールに足を運ばれ親しまれました。
このホールへの記憶は私たちオペラ・クラシックファンにとって、中学生、高校生、社会人となってからと様々ですが、多くの演奏とその時々の自身の背景や思い出が重なり合った存在であったとも言えるのではないでしょうか。
エットレ・バスティアニーニ研究会はバスティアニーニの芸術と生涯を研究し、且つ多くのオペラを勉強する会ですので、オペラやクラシック音楽を愛好されている方が多い会でもあるのです。
フェスティバルホールと重ね合わせた青春、忘れがたいた名演の思い出、ホールへの郷愁と愛着、オペラと音楽への愛と情熱などをご紹介させてもらいます。
オペラ記憶の蜃気楼~ゲネプロ伝説(大阪フェスティバルホールの思い出)
やました とおる
音楽界のギョーカイ用語の一つにゲネプロという言葉がある。
正しくはドイツ語の「ゲネラル・プローべ」Generalprobeの日本式端折り語だ。「通し稽古」と言っておればよろしいものを、何時の頃か気取った輩が使い出し、それを更に略したものが定着した。
語源も何も知らずに、皆ノーテンキに使っている。
オペラなどで、本番通り、衣裳を着け、メークをし、原則としてノン・ストップで行うリハーサルだ。
ぼくは幸い、ギョーカイ人間(演劇関係)だったので、ホール関係者とか、マスコミ(オペラなら音楽記者)の人とかにコネを求め、そのオペラ団のゲネプロに潜り込むことを画策した。
今回はその中で、最大級のオペラのお話をしよう。それは、1967年の大阪国際フェスティバルの時だ。
第10回を記念して、バイロイト祝祭のアンサンブルを招いたものだ。
この企画が発表された時の、ファンたちの受けた衝撃は、今では想像もつかぬものだった。
大体、固定団体で無いバイロイトが、単一の歌劇場のように、ツアーを行う道理が無い。
それがやって来る! しかも、発表された顔触れが凄い。特に、選ばれた2本の演目のうち、≪トリスタンとイゾルデ≫は、ヴォルフガンク・ヴィントガッセンとビルギット・ニルソンという、当時の黄金コンビによるものだ。
指揮こそカール・ベームやヴォルフガンク・サヴァリッシュではなく、ピエール・ブレーズだったが、この時のゲネプロに首尾よく潜り込んだものだ。
当時、朝日新聞の音楽記者をされていたUさんにお願いした。
ぼく一人(親友Mは平日が休めなかった)だったが、1階席のボックス席の後ろの、目立たぬ席に身を潜めた。
どんな場合でも(芝居も)、このような時は、中央に設けられている演出家の席より、前列へ座ってはならない。
開始されたのは、確か3時頃だったはずだ。 入って驚いたね。
緞帳が新調されていた。
渋く青いカーテンがどっしりと下りていた。
何か特別な催しをやるのだ、という空気が、場内に立ち込めていたようだ。
Uさんは、ぼくの着席を確認すると、出て行った。この時、確か前売を買った人たちが、何人か2階席で1幕だけ見学していたはずだ。
ぼくはもちろん、全幕通しだ。 オケ・ピットも深くしたとか、で、客席にも明かりは余り洩れず、非常灯の消灯は、この時代はまだ不可能だったはずだが、特別申請したものだったか。
要するに場内が真っ暗になって、何時しかあの前奏曲が香り立ったのだった。
今にして思えば、よくぞブレーズが指揮したものだ。前年に早世したヴィーラント・ワーグ ナーは多分、バイロイトでの『トリスタン』を約束したのだろう。
幕が開き、ニルソンの一声が、ほとんど無人のフェスティバルホールの空間に鳴り轟いた時の衝撃。彼女だけが、全開で歌っていた。
他は声をセーブしているのが分かった。 この日から数日後に本番が初日を迎え、ぼくも客席にいた。
フェスティバルホールの思い出・・芳香の響き(大阪フェスティバルホールの思い出)
喜多 宏
このホールの事を初めて知ったのは大学1年生になったばかりの時で、アレクサンダー・ガウク指揮のレニングラード・フィルが演奏するチャイコフスキーの交響曲第4番を下宿のTVで見た時だ。 終楽章のド迫力に「凄いなー」と感嘆の声を発したのを今も憶えている。
長い灰色の受験生活から抜け出たばかりの者にとっては、まるで夢の世界の様に見えた。
しかし間もなく、その夢は現実のものとなった。
翌年の10月にはそのホールの席に座ることになった。
しかも、それはカラヤン指揮ウイーン・フィルハーモニーの公演であった。
その年1959年は忘れもしない。伊勢湾台風が襲来し、急遽チヤリティ・コンサートが追加発表され、公演日も3日に増えたのだが、チケットの争奪は熾烈であった。朝一番に並んでも買えない人が沢山いた。
それにチケット代が高かった!当時の下宿での生活費の半月分位だったと記憶する。アルバイトは家庭教師しかなく、懐は火の車であった。
勿論、フェスティバルホールに足を踏み入れたのは、その時が初めてであった。エスカレータに乗って入ったロビー正面の豪華な花壇と清水の流れが生々しく印象に残っている。
そして、その時の演奏も、不思議な程こまごまと、鮮やかに記憶に残っている。ハイドン交響曲第104番は小編成ながら、放送で聴いたレコードの音と全く同じ音色で鳴ったのでビックリした。
続くベートヴェンのレオノーレ序曲第三番ではカラヤンが強引にオーケストラを引っ張ろうとしてスリルさえ感じさせるほどの白熱の演奏となった。メインのブラームス交響曲第2番はウイーン・フィルのメンバーが堂々と弾き、鳴らして、カラヤンはあたかもオーケストラに合わせて振っている?かの様に見えたのが面白かった。
当時のウイーン・フィルの面々は今から思うと信じ難いような大物揃いで、カラヤンといえども未だ新進気鋭・・という感じであった。オーケストラの音色も今とは相当違っていた印象で、弦楽の厚みある艶やかさ、管楽器群の線太の色彩感など随分と存在感が強かった。
さらに今では信じ難いかも知れないが、当夜のカラヤンはアンコールをサービスした。
ヨハン・シュトラウスⅡの「くるまば草・序曲」で、カラヤン指揮するウイーン・フィルのヨハン・シュトラウスを聴いた、との満足感を持って皆大喜びで帰路についたものだ。
この時の鮮烈な印象が、その後の人生に大きく影響を与えることとなる。
就職しての配属希望はまず大阪で、ホールに近い堂島に拠点のある営業部門にこだわった。
寮費を引かれると手取りは1万円以下。
チケットを買い、2000円もする輸入盤を探し、さらにオーディオ部品も買った。本当に大変で、どうやって金繰りをしたか?記憶にない。 入社翌年から大阪国際フェスティバルに来演する外国の有名オーケストラはモントウー、クリュイタンス、クーベリックから始まり、積極的に聴いてまわった。
ホールの2階最後列は1200円から1500円前後で、プレイガイドのお嬢さんにウインク?してどの公演も1枚は確保して貰えた。
なにせ当時は紅顔の美少年?なので、その様な事も可能であった。
ワルツ堂は眼前にあり、昼休みに出かけては貴重なLPを手に入れた。
オペラのチケットにも手を出せるようになったのは入社3年も経ってからで「スラブ」「バイロイト」「ボリショイ」などは運良く観られたが、やたらと出張が多く見逃したものも多い。
とにかく入社後20年間は会社の次に多く出入りしたのがフェスティバルホールであった。おかげで、昔から慣れ親しんだ世界中の有名オーケストラは全部ここで聴くことが出来た。
その後「残響が少ないホールは音が悪い」との不思議な俗説が世を覆う様になってゆく。
不要な残響が音色の魅力を殺減することをズバリ指摘する識者は残念ながら今も少ない。
残響が多いから良いだろう、と言うだけのホールが続々と建つ度に苦々しく思ったものだ。
一方此のホールも年を経るにつれエアコンの雑音が耳障りになってゆくのも事実であった。
アンケート用紙には常に「エアコンがうるさい」と書き、休憩時間にも「エアコンを消せ」とホール・スタッフにしつこく言うことになったのも、残念ながら事実である。
とはいえ此のホールの「響きの良さ」への愛着は、今も決して変わっていないと断言する。
この繊細で香り高い色彩感は他のホールにはない絶対の魅力なのだ!と大書したい。
今でも目を閉じると、世界中の名オーケストラの肌触りが、ありありと蘇ってくる。
その昔、夢にまで見た憬れの名演奏家たちに接した思い出の数々は一生の宝ものだ! 5年後に新しいホールが完成するそうだが、その際は昨今の悪しき残響至上主義に犯されることなく「現水準の良き残響」を維持して欲しい、と切に念じるものである。ファンの一人としては、ホール建設関係者の卓抜の見識を頼みとするのみである。
私の愛したホールと赤い絨毯(大阪フェスティバルホールの思い出)
藤田 牧子
私が大阪フェスティバルホールを初めて訪れたのは1966年アルトゥール・ルービンシュタインのコンサートでした。中学2年生でしかも広島から聴きに行きました。
当時は新幹線もまだ東京⇔大阪間のみでしたから、広島から大阪まで出かけるとなると特急に乗って4時間位かかっていたように思います。
今でしたら東京まで行けてしまいます。
でもその頃の私は音楽専攻の高校受験を控え、既に大阪まで月に一度、受験校の先生のピアノレッスンを受けに通っていました。
よく通ったものだと今では懐かしく思い出されます。
当時寝てもさめてもルービンシュタイン、ピアニストといえばルービンシュタイン、そのことを両親はよく知っていましたから早速チケットを手配してくれました。
なぜ父と一緒に行かなかったのか不思議でなりません。
コンサートは土曜日でした。
あの時代は土曜日とはいえ平日と同じように一日働いていたのかもしれません。私は学校が終わってすぐに列車に飛び乗ったのでしょう。
大阪からはこの地に在住の従姉と一緒にホールに向かいました。
初めてのフェスティバルホール。まず豪華な赤い絨毯にびっくりしました。
そしてそのラグジュアリーな雰囲気にすっかり酔いしれてしまいました。今まで地方のしかも公会堂と名のついた会場でしかコンサートを体験したことがなかった私にとって、まさにカルチャーショックでした。
このような豪華なホールの中で聴くコンサート。
しかも席がボックス席だったのです。隣りはなんと辻久子さんと作家の山崎豊子さん。特に山崎豊子さんはその時NHKで『横堀川』がヒットしていましたし、『白い巨塔』でもよく知っていましたから、従姉と私は本物の山崎豊子に会えたことにすっかりミーハーになってしまいました。
終演後ずうずうしく両女史に話しかけてしまいました。
辻久子さんは中学生の私が広島からわざわざ聴きに来たことに驚かれていました。
先日その従姉と会った折に「あの時辻さんは中学生にしては聴き方が違うと感心されていたよ。」と言っていましたが、私は全然記憶にありません。
その時の演奏曲目はベートーヴェンの『皇帝』とチャイコフスキーの『ピアノ協奏曲』。
ピアノコンチェルトを生で聴くのも初めてでした。オーケストラは朝比奈隆指揮の大阪フィルです。超豪華版だったのですね。
アンコールでは例の『火祭りの踊り』で、両手を大袈裟に高く振り上げるパフォーマンスでした。
その後フェスティバルホールは私の憧れの場所となりました。
翌年はバイロイト公演の≪トリスタンとイゾルデ≫を聴きました。さすがその時はボックス席とはいかず2階の席でしたが。
前年ヴィーラント・ワーグナーが急逝したことは残念であったものの、彼の照明の魔力もフェスティバルホールだからこそ伝わったのではないでしょうか。
特に幕切れ <愛の死> では暗黒の中、イゾルデの上半身だけにスポットが当たります。
その一点をじっと見つめていましたら、自分の心も体もすべてがワーグナーの音楽に吸い取られ別世界に連れて行かれるような錯覚に捉われてしまいました。
やがてオーケストラボックスの前で拍手している自分にようやく気がついたのでした。
以後≪トリスタンとイゾルデ≫は何回と聴いていますが、どの≪トリスタンとイゾルデ≫も陳腐に思えてなりません。
大阪万博のときもフェスティバルホールでは豪華絢爛たるコンサートが目白押しだったように思います。
カラヤン、バーンスタイン、フェスティバルホールで聴いたコンサート、オペラは数しれません。
その度にどんなにわくわくしたことでしょうか。 東京の文化会館へ通うようになりましてもフェスティバルホールの雰囲気の方がずっと好きでした。しかしもう20数年以上になりますがサントリーホール、シンフォニーホールができてから、フェスティバルホールは廃墟の気配が漂よっている感じが否めません。
先日ウィーンフィルを聴きに訪れました。
これが私にとって最後のフェスティバルホールでした。
ただ一度のボックス席を懐かしく見納めしてきました。
ホールはより美しく、その品格も更に増すよう蘇ってくれることを期待しています。そしてあの赤い絨毯だけはそのままにしてほしいと願うのですが、この願いは私だけでしょうか。どのようにされるのか目下気になっているところです。
私が接したエットレ・バスティアニーニ
刈米 興子
1965年6月9日夜の東京文化会館。
約一年半ぶりに来日したエットレ・バスティアニーニの登場を、満員の聴衆がかたずをのんで待った。
やがて舞台上手の奥からリズミカルな足音が近づいてきて、彼が現われた。
かなり太った。
トロヴァトーレの時の精悍な印象とは違う。
だが一曲目の「清き乙女、愛の泉よ」を歌い始めると、柔らかく広がって聴衆を包み込む声は、まさに彼のものだった。
二曲目の「わが愛しの恋人よ」までは声慣らしだったのか、軽く流したように聞えた。
しかし三曲目の「動いてはならぬ」に入ってからは、俄然、持ち前の華麗さと気品をたたえた歌唱の魅力が全開した。
「ロドリーゴの死」「コルティジャー二」「ドン・ジョヴァンニのセレナータ」。プログラムが進むにつれ、ひたすら拝聴ムードだった場内もリラックスし始めた。
「私は町の何でも屋」を歌いに登場したときは万雷の拍手に迎えられて、バスティアニーニが言った。
「This is Tokyo Olympic ha?」。
最前列の観客の一人が「オリンピック!」と言って笑い出した。釣られて笑い声がさざなみのように広がった。それを機に、舞台と客席が本当に一体化したのが感じられた。
至福に満ちた時は終わり、彼を見送ろうと外で待った。やがて彼が出てきた。
屋外灯に照らされた顔はハンサムというより、彫像のように立派だった。
目が合った。すると彼は車のほうに行かず近寄ってきた。慈父のようなしぐさで私の頬にそっと手を置き、回れ右をして去って行く。
私は茫然自失状態の中で、彼の手のぬくもりと、底知れぬ優しさに接したような思いをかみしめていた。
遠い遠い思い出。人生を彩るその貴重な一こまは、今なお私の中に息づいている。
刈米さんはバスティアニーニが大阪リサイタルに向かったのは前年オリンピックに向けて開通 した新幹線だったこと、またバスティアニーニは大阪での空き時間に当時封切の東宝映画、三船 敏郎・山村聡出演『キスカ』を一人で見に行ったと関係者の方から聞かされたことを話されまし た。
(『キスカ』は第2次世界大戦でアッツ島玉砕の後、キスカ島から日本軍撤退させる作戦の物語。
バスティアニーニが丁度封切映画を見ただけなのか、彼も戦争世代でこの「キスカ」の戦闘を知 っていたのか、それとも当時、三船敏郎はヨーロッパでは有名だったので見に行ったのかなどと 憶測していますが、この映画を選んで見た真の動機は今のところ不明です。)
2008年9月 丸山幸子 |