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お知らせと今後の予定

会員の皆様のエットレ・バスティアニーニへの熱い思い、芸術について、またご自身の人生と彼との係わりなどを語るページです。

大阪フェスティバルホールの思い出

フェスティバルホールは1958年(昭和33年)4月に開館し、音響の良さと豪華さから「音楽の殿堂」と言われ、国内外のオーケストラ、オペラ、アーティストを数多く迎え、長く音楽ファンに愛され続けてきました。
しかし、朝日新聞グループのビル建て替え工事に伴い、このホールは2009年春から解体され2013年に新ホールとして完成される予定です。

12月30日の大阪フィルハーモニー交響楽団「第9シンフォニーの夕べ」(大植英次指揮)の公演が最後で一旦閉館となります。

関西方面の方は勿論九州、四国、中国地方や名古屋、東京方面からも長い歳月に亘ってホールに足を運ばれ親しまれました。

このホールへの記憶は私たちオペラ・クラシックファンにとって、中学生、高校生、社会人となってからと様々ですが、多くの演奏とその時々の自身の背景や思い出が重なり合った存在であったとも言えるのではないでしょうか。

エットレ・バスティアニーニ研究会はバスティアニーニの芸術と生涯を研究し、且つ多くのオペラを勉強する会ですので、オペラやクラシック音楽を愛好されている方が多い会でもあるのです。

フェスティバルホールと重ね合わせた青春、忘れがたいた名演の思い出、ホールへの郷愁と愛着、オペラと音楽への愛と情熱などをご紹介させてもらいます。


オペラ記憶の蜃気楼~ゲネプロ伝説(大阪フェスティバルホールの思い出)

やました とおる

音楽界のギョーカイ用語の一つにゲネプロという言葉がある。

正しくはドイツ語の「ゲネラル・プローべ」Generalprobeの日本式端折り語だ。「通し稽古」と言っておればよろしいものを、何時の頃か気取った輩が使い出し、それを更に略したものが定着した。

語源も何も知らずに、皆ノーテンキに使っている。
オペラなどで、本番通り、衣裳を着け、メークをし、原則としてノン・ストップで行うリハーサルだ。
ぼくは幸い、ギョーカイ人間(演劇関係)だったので、ホール関係者とか、マスコミ(オペラなら音楽記者)の人とかにコネを求め、そのオペラ団のゲネプロに潜り込むことを画策した。

今回はその中で、最大級のオペラのお話をしよう。それは、1967年の大阪国際フェスティバルの時だ。

第10回を記念して、バイロイト祝祭のアンサンブルを招いたものだ。
この企画が発表された時の、ファンたちの受けた衝撃は、今では想像もつかぬものだった。

大体、固定団体で無いバイロイトが、単一の歌劇場のように、ツアーを行う道理が無い。
それがやって来る! しかも、発表された顔触れが凄い。特に、選ばれた2本の演目のうち、≪トリスタンとイゾルデ≫は、ヴォルフガンク・ヴィントガッセンとビルギット・ニルソンという、当時の黄金コンビによるものだ。
指揮こそカール・ベームやヴォルフガンク・サヴァリッシュではなく、ピエール・ブレーズだったが、この時のゲネプロに首尾よく潜り込んだものだ。

当時、朝日新聞の音楽記者をされていたUさんにお願いした。
ぼく一人(親友Mは平日が休めなかった)だったが、1階席のボックス席の後ろの、目立たぬ席に身を潜めた。

どんな場合でも(芝居も)、このような時は、中央に設けられている演出家の席より、前列へ座ってはならない。

開始されたのは、確か3時頃だったはずだ。 入って驚いたね。
緞帳が新調されていた。
渋く青いカーテンがどっしりと下りていた。
何か特別な催しをやるのだ、という空気が、場内に立ち込めていたようだ。

Uさんは、ぼくの着席を確認すると、出て行った。この時、確か前売を買った人たちが、何人か2階席で1幕だけ見学していたはずだ。
ぼくはもちろん、全幕通しだ。 オケ・ピットも深くしたとか、で、客席にも明かりは余り洩れず、非常灯の消灯は、この時代はまだ不可能だったはずだが、特別申請したものだったか。
要するに場内が真っ暗になって、何時しかあの前奏曲が香り立ったのだった。

今にして思えば、よくぞブレーズが指揮したものだ。前年に早世したヴィーラント・ワーグ ナーは多分、バイロイトでの『トリスタン』を約束したのだろう。

幕が開き、ニルソンの一声が、ほとんど無人のフェスティバルホールの空間に鳴り轟いた時の衝撃。彼女だけが、全開で歌っていた。
他は声をセーブしているのが分かった。 この日から数日後に本番が初日を迎え、ぼくも客席にいた。


フェスティバルホールの思い出・・芳香の響き(大阪フェスティバルホールの思い出)

喜多 宏

このホールの事を初めて知ったのは大学1年生になったばかりの時で、アレクサンダー・ガウク指揮のレニングラード・フィルが演奏するチャイコフスキーの交響曲第4番を下宿のTVで見た時だ。 終楽章のド迫力に「凄いなー」と感嘆の声を発したのを今も憶えている。

長い灰色の受験生活から抜け出たばかりの者にとっては、まるで夢の世界の様に見えた。 
しかし間もなく、その夢は現実のものとなった。

翌年の10月にはそのホールの席に座ることになった。
しかも、それはカラヤン指揮ウイーン・フィルハーモニーの公演であった。

その年1959年は忘れもしない。伊勢湾台風が襲来し、急遽チヤリティ・コンサートが追加発表され、公演日も3日に増えたのだが、チケットの争奪は熾烈であった。朝一番に並んでも買えない人が沢山いた。
それにチケット代が高かった!当時の下宿での生活費の半月分位だったと記憶する。アルバイトは家庭教師しかなく、懐は火の車であった。
勿論、フェスティバルホールに足を踏み入れたのは、その時が初めてであった。エスカレータに乗って入ったロビー正面の豪華な花壇と清水の流れが生々しく印象に残っている。

そして、その時の演奏も、不思議な程こまごまと、鮮やかに記憶に残っている。ハイドン交響曲第104番は小編成ながら、放送で聴いたレコードの音と全く同じ音色で鳴ったのでビックリした。

続くベートヴェンのレオノーレ序曲第三番ではカラヤンが強引にオーケストラを引っ張ろうとしてスリルさえ感じさせるほどの白熱の演奏となった。メインのブラームス交響曲第2番はウイーン・フィルのメンバーが堂々と弾き、鳴らして、カラヤンはあたかもオーケストラに合わせて振っている?かの様に見えたのが面白かった。

当時のウイーン・フィルの面々は今から思うと信じ難いような大物揃いで、カラヤンといえども未だ新進気鋭・・という感じであった。オーケストラの音色も今とは相当違っていた印象で、弦楽の厚みある艶やかさ、管楽器群の線太の色彩感など随分と存在感が強かった。

さらに今では信じ難いかも知れないが、当夜のカラヤンはアンコールをサービスした。
ヨハン・シュトラウスⅡの「くるまば草・序曲」で、カラヤン指揮するウイーン・フィルのヨハン・シュトラウスを聴いた、との満足感を持って皆大喜びで帰路についたものだ。 
この時の鮮烈な印象が、その後の人生に大きく影響を与えることとなる。

就職しての配属希望はまず大阪で、ホールに近い堂島に拠点のある営業部門にこだわった。
寮費を引かれると手取りは1万円以下。
チケットを買い、2000円もする輸入盤を探し、さらにオーディオ部品も買った。本当に大変で、どうやって金繰りをしたか?記憶にない。 入社翌年から大阪国際フェスティバルに来演する外国の有名オーケストラはモントウー、クリュイタンス、クーベリックから始まり、積極的に聴いてまわった。

ホールの2階最後列は1200円から1500円前後で、プレイガイドのお嬢さんにウインク?してどの公演も1枚は確保して貰えた。

なにせ当時は紅顔の美少年?なので、その様な事も可能であった。
ワルツ堂は眼前にあり、昼休みに出かけては貴重なLPを手に入れた。

オペラのチケットにも手を出せるようになったのは入社3年も経ってからで「スラブ」「バイロイト」「ボリショイ」などは運良く観られたが、やたらと出張が多く見逃したものも多い。
とにかく入社後20年間は会社の次に多く出入りしたのがフェスティバルホールであった。おかげで、昔から慣れ親しんだ世界中の有名オーケストラは全部ここで聴くことが出来た。

その後「残響が少ないホールは音が悪い」との不思議な俗説が世を覆う様になってゆく。
不要な残響が音色の魅力を殺減することをズバリ指摘する識者は残念ながら今も少ない。
残響が多いから良いだろう、と言うだけのホールが続々と建つ度に苦々しく思ったものだ。

一方此のホールも年を経るにつれエアコンの雑音が耳障りになってゆくのも事実であった。
アンケート用紙には常に「エアコンがうるさい」と書き、休憩時間にも「エアコンを消せ」とホール・スタッフにしつこく言うことになったのも、残念ながら事実である。
とはいえ此のホールの「響きの良さ」への愛着は、今も決して変わっていないと断言する。
この繊細で香り高い色彩感は他のホールにはない絶対の魅力なのだ!と大書したい。

今でも目を閉じると、世界中の名オーケストラの肌触りが、ありありと蘇ってくる。
その昔、夢にまで見た憬れの名演奏家たちに接した思い出の数々は一生の宝ものだ! 5年後に新しいホールが完成するそうだが、その際は昨今の悪しき残響至上主義に犯されることなく「現水準の良き残響」を維持して欲しい、と切に念じるものである。ファンの一人としては、ホール建設関係者の卓抜の見識を頼みとするのみである。


私の愛したホールと赤い絨毯(大阪フェスティバルホールの思い出)

藤田 牧子

私が大阪フェスティバルホールを初めて訪れたのは1966年アルトゥール・ルービンシュタインのコンサートでした。中学2年生でしかも広島から聴きに行きました。

当時は新幹線もまだ東京⇔大阪間のみでしたから、広島から大阪まで出かけるとなると特急に乗って4時間位かかっていたように思います。

今でしたら東京まで行けてしまいます。
でもその頃の私は音楽専攻の高校受験を控え、既に大阪まで月に一度、受験校の先生のピアノレッスンを受けに通っていました。
よく通ったものだと今では懐かしく思い出されます。

当時寝てもさめてもルービンシュタイン、ピアニストといえばルービンシュタイン、そのことを両親はよく知っていましたから早速チケットを手配してくれました。
なぜ父と一緒に行かなかったのか不思議でなりません。

コンサートは土曜日でした。
あの時代は土曜日とはいえ平日と同じように一日働いていたのかもしれません。私は学校が終わってすぐに列車に飛び乗ったのでしょう。

大阪からはこの地に在住の従姉と一緒にホールに向かいました。 
初めてのフェスティバルホール。まず豪華な赤い絨毯にびっくりしました。
そしてそのラグジュアリーな雰囲気にすっかり酔いしれてしまいました。今まで地方のしかも公会堂と名のついた会場でしかコンサートを体験したことがなかった私にとって、まさにカルチャーショックでした。 
このような豪華なホールの中で聴くコンサート。
しかも席がボックス席だったのです。隣りはなんと辻久子さんと作家の山崎豊子さん。特に山崎豊子さんはその時NHKで『横堀川』がヒットしていましたし、『白い巨塔』でもよく知っていましたから、従姉と私は本物の山崎豊子に会えたことにすっかりミーハーになってしまいました。

終演後ずうずうしく両女史に話しかけてしまいました。

辻久子さんは中学生の私が広島からわざわざ聴きに来たことに驚かれていました。
先日その従姉と会った折に「あの時辻さんは中学生にしては聴き方が違うと感心されていたよ。」と言っていましたが、私は全然記憶にありません。

その時の演奏曲目はベートーヴェンの『皇帝』とチャイコフスキーの『ピアノ協奏曲』。
ピアノコンチェルトを生で聴くのも初めてでした。オーケストラは朝比奈隆指揮の大阪フィルです。超豪華版だったのですね。

アンコールでは例の『火祭りの踊り』で、両手を大袈裟に高く振り上げるパフォーマンスでした。

その後フェスティバルホールは私の憧れの場所となりました。
翌年はバイロイト公演の≪トリスタンとイゾルデ≫を聴きました。さすがその時はボックス席とはいかず2階の席でしたが。
前年ヴィーラント・ワーグナーが急逝したことは残念であったものの、彼の照明の魔力もフェスティバルホールだからこそ伝わったのではないでしょうか。
特に幕切れ <愛の死> では暗黒の中、イゾルデの上半身だけにスポットが当たります。
その一点をじっと見つめていましたら、自分の心も体もすべてがワーグナーの音楽に吸い取られ別世界に連れて行かれるような錯覚に捉われてしまいました。

やがてオーケストラボックスの前で拍手している自分にようやく気がついたのでした。
以後≪トリスタンとイゾルデ≫は何回と聴いていますが、どの≪トリスタンとイゾルデ≫も陳腐に思えてなりません。

大阪万博のときもフェスティバルホールでは豪華絢爛たるコンサートが目白押しだったように思います。
カラヤン、バーンスタイン、フェスティバルホールで聴いたコンサート、オペラは数しれません。
その度にどんなにわくわくしたことでしょうか。 東京の文化会館へ通うようになりましてもフェスティバルホールの雰囲気の方がずっと好きでした。しかしもう20数年以上になりますがサントリーホール、シンフォニーホールができてから、フェスティバルホールは廃墟の気配が漂よっている感じが否めません。

先日ウィーンフィルを聴きに訪れました。
これが私にとって最後のフェスティバルホールでした。

ただ一度のボックス席を懐かしく見納めしてきました。
ホールはより美しく、その品格も更に増すよう蘇ってくれることを期待しています。そしてあの赤い絨毯だけはそのままにしてほしいと願うのですが、この願いは私だけでしょうか。どのようにされるのか目下気になっているところです。


私が接したエットレ・バスティアニーニ

刈米 興子

1965年6月9日夜の東京文化会館。

約一年半ぶりに来日したエットレ・バスティアニーニの登場を、満員の聴衆がかたずをのんで待った。
やがて舞台上手の奥からリズミカルな足音が近づいてきて、彼が現われた。
かなり太った。
トロヴァトーレの時の精悍な印象とは違う。
だが一曲目の「清き乙女、愛の泉よ」を歌い始めると、柔らかく広がって聴衆を包み込む声は、まさに彼のものだった。

二曲目の「わが愛しの恋人よ」までは声慣らしだったのか、軽く流したように聞えた。

しかし三曲目の「動いてはならぬ」に入ってからは、俄然、持ち前の華麗さと気品をたたえた歌唱の魅力が全開した。
「ロドリーゴの死」「コルティジャー二」「ドン・ジョヴァンニのセレナータ」。プログラムが進むにつれ、ひたすら拝聴ムードだった場内もリラックスし始めた。
「私は町の何でも屋」を歌いに登場したときは万雷の拍手に迎えられて、バスティアニーニが言った。
「This is Tokyo Olympic ha?」。

最前列の観客の一人が「オリンピック!」と言って笑い出した。釣られて笑い声がさざなみのように広がった。それを機に、舞台と客席が本当に一体化したのが感じられた。

至福に満ちた時は終わり、彼を見送ろうと外で待った。やがて彼が出てきた。

屋外灯に照らされた顔はハンサムというより、彫像のように立派だった。
目が合った。すると彼は車のほうに行かず近寄ってきた。慈父のようなしぐさで私の頬にそっと手を置き、回れ右をして去って行く。

私は茫然自失状態の中で、彼の手のぬくもりと、底知れぬ優しさに接したような思いをかみしめていた。

遠い遠い思い出。人生を彩るその貴重な一こまは、今なお私の中に息づいている。

刈米さんはバスティアニーニが大阪リサイタルに向かったのは前年オリンピックに向けて開通 した新幹線だったこと、またバスティアニーニは大阪での空き時間に当時封切の東宝映画、三船 敏郎・山村聡出演『キスカ』を一人で見に行ったと関係者の方から聞かされたことを話されまし た。 
(『キスカ』は第2次世界大戦でアッツ島玉砕の後、キスカ島から日本軍撤退させる作戦の物語。 
バスティアニーニが丁度封切映画を見ただけなのか、彼も戦争世代でこの「キスカ」の戦闘を知 っていたのか、それとも当時、三船敏郎はヨーロッパでは有名だったので見に行ったのかなどと 憶測していますが、この映画を選んで見た真の動機は今のところ不明です。) 
2008年9月 丸山幸子

2008年1月15日(火)に日本経済新聞 文化欄 全国版にバスティアニーニについての記事掲載されました。

ー忘れ得ぬバリトンの君よー 早世した名歌手、バスティアニーニの人生と芸術を追う


記事

掲載文は以下の通りです。

リサイタルの後、アンコールを何度も歌い、舞台に駆け寄る観客と握手をし、さらにその後、ファンにサインをしてくれた。初めて間近で見たエットレ・バスティアニーニの顔は、とても白かった。唇は鮮やかな赤。一九六五年六月、大阪・毎日ホールのロビー。ハンカチにサインをもらった私は高校二年生だった。

一年半後の六七年一月、彼は咽頭(いんとう)がんで亡くなる。四十四歳。元気だと信じ切っていた。どうして、の言葉しかなかった。今も、早世したことへの無念が心を占め続けている。後で知ったが、初来日時、彼は既に病気と闘っていた。

きっかけはテレビ中継

以後、バリトン歌手、バスティアニーニの人生や芸術を調べている。やがて、同じように彼を追い続けてきた桂川清子さんと知り合い、二人で「エットレ・バスティアニーニ研究会」を立ち上げた。
昨秋は没後四十年を記念し、死をみとった元婚約者のマヌエーラさんと共に、亡くなったイタリアのシルミオーネの家に記念碑文のプレートを設置した。

初来日は六三年のNHKイタリア歌劇「トロヴァトーレ」。
大阪在住の中学生だった私は見に行けなかったが、テレビ中継で魅了された。
彼のルーナ伯爵役で、バリトンの声の渋さ、深さを知った。バスティアニーニの美声となめらかな歌唱には気品があった。
加えて立ち姿が美しく、大人の男性の色気にあふれていた。当時美男といわれた映画スターが、子供っぽく見えてしまった。

だが、もう、いない。私は彼のレコードを集め、彼以外の多くのオペラも聴き続けた。
やがて結婚し、子育てや夫の転勤があった。
八〇年代に東京に転勤すると、イタリア語を勉強した。
バスティアニーニの公演記録を調べ、来日時に彼と仕事をした方々を訪ねた。

同好の士と巡り合う

そんなとき、あるオペラの会合で桂川さんと知り合った。
彼女も「トロヴァトーレ」の前売り時、大学入学で上京したばかりだったが、学用品よりも先にチケットを買ったという。バスティアニーニの没後二十五周年に何かやりたい、と夢を語る私に「いいね」と即答してくれた。
勇気と希望を得た思いだった。
そこで研究会を立ち上げ、九二年、彼の写真や公演記録を展示し、ファンの方々と映像や歌声を鑑賞するしのぶ会を開いた。

その少し後、桂川さんと訪れたバスティアニーニの故郷、シエナで生家の扉が偶然開いていたことも、大きな一歩になった。
桂川さんは既に三度訪れていたがいつも閉まっていて、呼び鈴にも応答がなかったという。

思い切って足を踏み入れ、階段を上った。
生家は日本でいう四階。
二階の八十歳の女性が、四階と同じ間取りの室内を見せてくれた。
以後彼女と交流が生まれ、翌年訪問したときはバスティアニーニの幼なじみ、ジャンニーニさんを紹介してくれた。
シエナは歴史ある街で、幾つかの地区に分かれ祭りなどで競い合っている。
私たちはバスティアニーニが資金を出して改築した彼の地区の本部(博物館)などを見せてもらった。

孫とも対面果たす

没後三十五周年を目前にした二〇〇一年には、お孫さんを見つけ出した。
バスティアニーニは若いころ、息子を一人もうけている。その子は三十代で亡くなったが、男女二人の子を残していた。

祖父と同名の孫に日本から電話をかけ、私たちの没後三十五周年の追悼会に来日してほしいと頼むと、快諾してくれた。
説明のためイタリアのお宅へ出向くと、バスティアニーニの肖像画や衣装を目にできた。
九〇年代に出版された伝記にも出てこない貴重な品ばかりで、夢のようだった。
この孫を通じて、先述のマヌエーラさんとも知り合った。
祖父の面影を残す孫のエットレさんは「イタリアより日本の方がファンが多いかもしれない」と言ってくれた。

バスティアニーニは「ドン・カルロ」「仮面舞踏会」など特にヴェルディバリトンで群を抜いた存在だった。スカラ座やメトロポリタン歌劇場など世界で活躍した。
でもバリトンというパートゆえか、マリア・カラスをはじめ同時代のソプラノやテノールに比べると、まだ知らない方もいる。
このことは早世の無念さよりも悔しい。

だが、わずか二度の来日で旋風を巻き起こし、日本人の心に刻み込まれた名歌手である。
彼の芸術やオペラそのものへの理解を、奈良県にいる私と東京に住む桂川さんとで続けている勉強会や、オペラツアーなどを通じて、広めていきたい。

(まるやま・さちこ=オペラ研究家)

紙面に掲載された写真は右の写真から使用されました。 1992年2月8日「没後25周年、エットレ・バスティアニーニを偲ぶ会」東京での開催時の丸山幸子と桂川清子の写真です。


イタリア語訳

Il 15 gennaio 2008, un giornale nazionale di Giappone, “Nihon Keizai Shinbun” ha pubblicato la intervista della direttatrice su Associazione Ettore Bastianini.

Il Baritono! Non ti dimentichiamo mai

Dopo ha avuto cantato tutti pezzi sul programma ha dato tanto bis, e dopo la recita ha dato l’autografo agli ammiratori. Ettore Bastianini che ho visto per la mia prima volta , aveva la faccia molto pallida e il labbro rosso brillante. Il giugno 1965 , al suo concerto, in vestibolo di Mainichi Hall in Osaka, ho ricevuto il suo autografo sul fazzoletto. Ero una studentessa di secondo liceo. Dopo un anno e mezzo, in gennaio 1967, e` scomparso dal cancro faringeo all’eta di 44anni. Credevo che fosse sano finche′non ho letto la notizia. Soltanto una parola “ perche’ ” mi e` avvenuta perche′questa notizia non era credibile. Adesso ancora la sua morte prematura porta la tristezza a noi. Dopo la sua morte, ho saputo che egli gia stava malato quando ha visitato il Giappone per la sua prima volta.

Inizio e` stato collegamento di TV

Successivamente, stavo facendo ricerche sulla vita e l’atre del canto di Ettore Bastianini. In quel frattempo ho conosciuto Signora.Kiyoko.Katsuragawa che e` anche la sua ammiratrice.Abbiamo fondato Associazione di Studi su Ettore Basitanini. In autunno del’anno scorso, per commemorare il quarantennale dopo la sua morte,colla Madam Manuela, chi si e` fidanzata una volta con lui, abbiamo messo la targa commemorativa alla sua casa di Sirmione. Egli ha visitato il Giappone per la prima volta sull’invito di NHK per rappresentare〃Il Trovatore〃in 1963. A quei tempi io avitavo a Osaka e ero un’alunna di scuola media, dunque non ho potuto andare alla recita, invece ho visto il spettacolo trasmesso da TV . Il canto e la voce di Bastianini tenevano la nobilita,e il suo aspetto stava molto affascinante. Ma egli non c’e` piu. Ho comminciato di collezionare i suoi dischi, ascoltato tante opere rappresentate dall’ altri cantanti, studiato la lingua italiana, cercato i suoi documenti dei suoi rappresentazioni, visitato la gente che hanno lavorato con lui quando egli ha cantato in Giappone.


L’incontro colla persona chi ha interessi comuni.

In quel tempo,ho incontrato colla signora Katsuragawa all’una riunione su opera ,e abbiamo fondato l’istituto di studi su lui. In 1992 e` tenuto coi suoi ammiratori la riuione per ricordarlo presentando le sue immagini e i documenti dei suoi rappresentazioni. Dopo poco abbiamo visitato la sua domicilio natale che sta il terzo piano in uno edifizio in Siena, e incontrato una vecchia signora chi abitava sotto due piani. A l’anno seguente quando ho rivisitato a Siena da sola, ella ci ha presentato un amico d ’infanzia di Bastianini, Signor Giannini. Ci ha mostrato la Sede della sua contrada del Palio, di che Bastianini si e` incaricato il costo di ricostruzione.

L’incontro con un nipote di Bastianini

In 2001 abbiamo visto uno dei suoi nipoti chi tiene il stesso nome. Ho telefonato a lui chiedendo ad’assistere alla cerimonia di commemorazione di 35 anni dopo la sua morte in 2002. Egli ci ha dato il proprio consenso volentieri. Quando siamo andate alla sua casa per spiegare in dettaglio, abbiamo potuto vedere il ritratto e i costumi del suo nonno. Col suo presentazione, abbiamo conosciuto Madam Manuela. Signor Ettore chi tiene dal’immagine del suo nonno, dice “Forse ci sono tanti ammiratori piu in Giappone che in Italia”. Bastianini era il baritono splendissimo, ha cantato in tutto il mondo. Ma e` meno famoso che soprano o tenore come Maria Callas o Mario Del Monaco. Forse e` perche’ egli stava baritono. Quello io desolo piu` della sua morta troppo presto. Ma egli e` il cantante eccellente che ha fatto sensazione e dato una viva impressione ai Giapponesi colle rappresentazioni soltanto due volte in Giappone. Io voglio fare piu` tante persone sapere della sua arte e la lirica operistica stessa colla nostra attivita.

(Sachiko Maruyama. La commentatrice di opera).

バスティアニーニ、思い出すままに

2005年9月 ペンネーム:波多野 遼

<出会い>
1963年10月のある日、東京文化会館の小ホールで、私が師事していたピアニストの演奏会があった。その日は大ホールでも催し物があるらしく、ロビーに並ぶ机の上には、パンフレットが積まれていた。「NHKイタリア歌劇団」のパンフレットであった。何気なく手に取った一冊の、ある写真に目が釘付けになった。男性的で知的で気品をたたえた面差し。こちらを見据える、強烈だが、暖かなまなざし。「世の中に、こんなに素敵な男性がいるのか!」。その瞬間から「バスティアニーニ」は私にとって特別な存在となった。恥ずかしいほど単純なのだが「オペラ歌手になりたい!」と本気で思う日々が始まった。私が、中学1年生の時の出来事だった。

<リサイタル>
バスティアニーニの声を実際に聞いたのは、それから約2年後、1965年のリサイタルの時であった。東京と横浜のリサイタルに行った。どのようなステージであったのか、ほとんど思い出すことができない。多分、ステージ上のバスティアニーニを全身全霊で追っていたからであろう。ただ、ある歌のフレーズだけが耳に残った。後年、それがドゥランテの「清らな乙女」であったことを知った。2回ともサインをもらっていて、そのうちの一回ではSee you in Tokyoと小さな声で話しかけたことを記憶している。残念ながら、反応はなかった・・・。ちなみに私の友人は横浜でのリサイタル時、警備員に導かれて控え室にたどりつき、部屋の中に一人でいたバスティアニーニにサインをもらったという。彼は丁寧に彼女を部屋に招き入れ、彼女の名前を入れてサインをしてくれたそうである。

<訃報>
高校時代、下校途中に立ち寄った本屋で、『音楽の友』で「彼」の訃報を知り衝撃を受けた。バスに乗っても涙が止まらず、たまたま同乗していた知人から「だいじょうぶですか」と声をかけられたことを憶えている。「彼」がいればこそ、私はオペラ歌手になりたいと思い、声楽のレッスンも受け始めていた。目標が消えた時、私の夢もまた潰えたのである。その後20年以上、私はオペラを聴くことも、見ることもなかった。私にとって、オペラとはバスティアニーニのことであった。

<シエナへ>
「いつの日か、バスティアニーニのお墓を訪ねたい」という気持ちがあった。1973年の早春にその機会にめぐまれた。事前にシエナの観光課や、NHKでイタリアオペラと関係が深かった福原信夫氏にお目にかかり墓所の情報を集めた。シエナの町はずれに、めざす共同墓地があった。墓地入り口の左手で花を商っていた老女から、白い花を買い求めた。それから右手の建物に立ち寄り、墓守とおぼしき人物に案内をたのんだ。 
バスティアニーニの眠る墓所は、4~5人が入ればいっぱいになるような、簡素で小規模な祠であった。彼の石棺は一番下にあり、その上には、彼のゆかりの人々のものと思われる石棺もあった。石棺のろうそく立てには、ロザリオやスカーフが巻き付けられていた。墓参のファンのものであったのだろう。
それまで旅行客として写真を撮りまくっていたのだが、さすがにこの墓地だけにはカメラを向ける気がしなかった。夕暮れの墓地が醸し出す荘厳さには、侵しがたいものがあったからである。

<宝物>
私は「素敵な男性に目が眩んだ」という極めて軽薄なきっかけで、バスティアニーニ・ファンになった。だが、そのことが私の生き方に大きな影響を与えた。子育てが一段落し漠然と「自分の人生はこれで終わるのだろうか」と自問したときに、「やっぱりオペラを歌いたい!」と思うようになった。以後、カルチャースクールを手始めに、ボイストレーニング、オペラ歌手への師事と「道楽」はエスカレートし、結果、小さなコンサートまで開いてしまった。オペラを通じて、多くの友人も得た。もしバスティアニーニを知らなければ、ありえない人生の展開、人々との出会いであった。歌のある人生、それは彼からいただいた、かけがえのない宝物だと、私は勝手にそう思っている。

<尊敬>
『君の微笑み』は、待望の本だった。彼の人生の詳細、とりわけ歌手として絶望的な病状であったことを知り、ショックが大きかった。アマチュアの私でさえ、ノドの調子が悪い場合は、本番までの時間は不安と焦燥感に満ちたものになる。病いに冒されたバスティアニーニを待っていたのは、決して失敗を許されない大舞台である。しかもあの名声がついて回るのだ。さぞかし不安に苛まれたであろうと思うと、本当に心が痛んだ。同時に、そのような身体を押して、よくりっぱに舞台を努めたものだと、改めて彼に対する尊敬の気持ちを強くした次第である。

<研究会>
バスティアニーニのすばらしさを、なんとか伝えるてだてはないのだろうか、あの時彼に熱狂した日本の人々は、今はどこでどうしているのだろうと常々思ってきた。それゆえ『君の微笑み』の編集者・岩切氏からこの研究会を教えて頂いたときには、本当にうれしかった。自分と同じことを考えている人々が他にも多く存在したことが、うれしかった。イタリアから遠く離れた日本の地で、40年間も彼の歌を忘れなかった人々がいることを知ったら、きっと彼は喜んでくれるに違いない。
バスティアニーニ、君が微笑みよ、永遠なれ。

~フィレンツェ・シエナ旅行記~

2005年9月12日 浅野 安良

仕事の合間を縫って8月23日に日本を発って29日に帰ってきました。
今回の旅の目的は大きく分けて二つ
・バスティアニーニのお墓参りをすること
・ラファエッロの小椅子の聖母を観ること

でした。

その他に、フィレンツェはオペラ誕生の地なので、オペラが初演されたと言われているコルシ邸やロッシーニやガリレオが埋葬されているサンタ・クローチェ教会に行く事でした。
フィレンツェに三泊、シエナに二泊しました。
シエナには、12時にホテルにチェック・インできたので、ほぼ2日間、滞在できました。

私は、フィレンツェよりもシエナの方に好印象を持ちました。
と言うよりも、シエナの街並が私の肌に合ったと言うべきかもしれません。
フィレンツェには、一度は本物を観て見たいと思い続けていたラファエッロの小椅子の聖母の絵画があり、大好きなラファエッロの絵画だけでなく、パラティーナ美術館その物や、美術館の天井に描かれている絵画等にも圧倒され、美術館の中にいてクラクラして来て、めまいを覚える程でした。
しかし、フィレンツェは、あまりにも街全体が美術館の様に美しすぎて、私には神々しい街でした。

一方、シエナも、美しい中世の街並が残り、美術館の様な街でしたが、生活観にあふれ、人の営みや街の呼吸を感じました。
シエナに暮し、ルネッサンスの美術を観にフィレンツェに出掛ける。なんて暮らしが出来たら夢の様です。

さて、今回の旅行の主目的であったバスティアニーニのお墓参りですが、ホテルのフロントに尋ねても分からず、私の知っている情報
(城壁のラテリーナ門を出てまっすぐ行くと墓地があって、その墓地の中に、バスティアニーニのお墓がある。)
とホテルでもらったシエナ市街地の地図を頼りに、バスティアニーニのお墓に行く事が出来ました。

墓地の手前にあった花屋さんでお年を召した女性に、私の出鱈目なイタリア語で、彼のお墓はどこかと聞くと、身振り手振りで、墓地の中の何処にバスティアニーニのお墓があるか教えてくれました。
その花屋さんで、彼の墓前に捧げる花束を注文すると、おばさんは、彼のコントラーダ(パンテーラ)の色である赤、青、白の三色の花と同じ三色のリボンで丁寧に花束を作ってくれました。 先ず、バスティアニーニの墓前に立つ前に、この花屋のおばさんが、パンテーラの色で花束を作ってくれた事に、とても感激しました。おばさんの身振りで教えてもらったとおりに墓地の中を歩くと苦もなくバスティアニーニのお墓に辿り着く事ができました。
花屋のおばさんの心のこもったパンテーラの色の花束をお墓に捧げて、お墓の前で黙祷をしていると、熱いものがこみ上げてきました。

9時にホテルを出てお墓に向かったのですが、向かう途中でバスティアニーニの生家を観ました。街の中心から外れ、城壁の近くに静かに佇むバスティアニーニの生家を観て、その時には、なんとも、うら寂しい感じがしたのですが、お墓参りをした後に家の前を通ると、通り沿いの各家の軒先にパンテーラの旗が、飾ってありました。
勿論、バスティアニーニの生家にもパンテーラの旗が飾ってありました。
パンテーラの旗がはためくバスティアニーニの生家の印象は、お墓参りに出掛ける時に
感じた「うら寂しい感じ」は、一変し、見違える様でした。
その佇まいは、家に命が与えられたかの様でした。

(写真)「パンテーラの旗がはためくバスティアニーニの生家とその街並」

パンテーラの旗がはためくバスティアニーニの生家とその街並 パンテーラの旗がはためくバスティアニーニの生家とその街並

パンテーラの旗がはためくパンテーラ地区の通りを散策していると、何か、パンテーラ地区に住む全ての方々がバスティアニーニの遺族であるよう様な、または、パンテーラ地区全体がバスティアニーニの家族や親戚の様な感じがしました。
たった一つの事(旗を掲げる事)だけで、こうも印象が変わるとは、とても驚きました。
本当に、うわべだけでないコントラーダの人々の生活へ根付き方の深さを実感しました。

その日は、シエナの街中に各コントラーダの旗が飾ってあり、夕方には、太鼓を叩く音が聞こえてきました。もしもと思って、パンテーラの地区に行くと、パンテーラの伝統衣装を身にまとい、旗を振り、太鼓を叩く行列がパンテーラの街を行進していました。
勿論、この行列は、バスティアニーニの生家の前も行進して行き、その場を見れた事に、私は、この上ない嬉しさと感謝の気持ちを今も抱いております。

このコントラーダの行進は、パンテーラだけでなく、他のコントラーダでも行われ、しばらくして物凄い人だかりができて、何だろうと思っていると、象のコントラーダがパリオで勝利したことを祝勝する大パレード(凱旋行進)が始まりました。
パレードに集まった群衆は、老若男女問わず、皆、喜びに満ちた素晴らしい笑顔をしていて、それは、歓喜に満ちた凄いものでした。

(写真)「象のコントラーダの凱旋パレードの様子と聖母が描かれた勝利の旗」

象のコントラーダの凱旋パレードの様子と聖母が描かれた勝利の旗 象のコントラーダの凱旋パレードの様子と聖母が描かれた勝利の旗

何せ、ワーグナーのワルキューレが大音量で鳴り響くと本物の象まで登場し、ワルキューレが鳴り響く中、象までもがシエナの街並を行進して・・・・・・・。
異邦人で文化や習慣も異なる私までも、ただ見物をしているだけで、思わず笑みがこぼれ、シエナの人達が本当にうらやましく思えました。

どんなに探してもバスティアニーニ本人は、この世にいませんが、 このコントラーダの風習をわずかながら垣間見て、シエナ人であったバスティアニーニの血やバスティアニーニその人の面影を見た気がしました。
生涯、忘れられない1日になりました。

以上、つたない文章ですが、私の旅行記です。


わが人生の通奏低音

栗 原 淑 江

「お前たち、イタリア・オペラ観に行くか?」クラシック音楽とはおよそ縁のなかった父のこの一言が、いま思えば、私のバスティアニーニとの出会いを導いたのだった。父の勤務先の関係でこのとき入手できたチケットは「西部の娘」。姉妹3人、東京文化会館で初めて観たイタリア・オペラは、ステッラの熱演もあって強い印象を受けたが、それ以上に私たちは、NHKテレビでくり返し放映された「トロヴァトーレ」(全曲・ハイライト合わせて7,8回も放映されたろうか)のルーナ伯爵を歌うバスティアニーニにすっかり魅了されてしまった。

登場しただけで存在感のある姿とその第一声、マンリーコへの嫉妬と怒りに燃える(しかし決して品位を失うことのない)三重唱、レオノーラへの狂おしい想いを歌い上げる「君の微笑み」、そして3幕でマンリーコの助命を乞うレオノーラとの二重唱の緊迫感(2人の感情がまったくすれ違いながら絡み合っていく見事さ)など、今もその記憶は鮮やかに甦ってくる。

それからというものは、ロンドン・レコードから出ていたオペラ・アリア集を求め、くり返し聴いた。また、楽譜を買ってきて「君の微笑み」をはじめとするバリトンのアリアを姉たちと弾いたり歌ったり。セビリアの理髪師、ファヴォリータ、ジョコンダ、運命の力etc.彼のレパートリーをたどりながら、私はオペラの世界に入って行った。2年後の来日リサイタル(東京公演)は、一度は姉と、もう一度は妹と、2回にわたって聴きに行った。生で聴くロドリーゴやレナート、リゴレットなどのアリアはもとより素晴らしかったが、バリトンで歌われたナポリ民謡や「清い乙女 愛の泉よ」「マレキアーレ」「こおろぎは歌う」といったイタリア歌曲も味わい深かった。姉や妹とともに、両手の平が痛くなるほど拍手を重ねた(後年、このリサイタルのライヴCDが発売されたときには、思いがけず懐かしい人に再会できたような気がして、胸が熱くなった)。

初めて手にしたバスティアニーニのオペラ全曲盤は「ドン・カルロ」(5幕版、サンティーニ指揮、スカラ座管弦楽団・合唱団)だった。キャストも粒ぞろいの名盤の誉れ高いレコードだが、なかでもバスティアニーニのロドリーゴは、はまり役だった。友情にあつく、フランドル独立の理想に燃える闘士の情熱、高潔な人間像が余すところなく描き出され、フィリッポ王がほれ込むのもさもありなんと思わせる。当時、この原作であるシラーの戯曲は筑摩書房の世界文学全集に収められたものしかなく、その一巻を探しながら本屋を何軒も歩き回った。このシラーの巻にはまた、「歓喜の歌」などの詩作品や「群盗」「たくらみと恋」も収録されていて、シラーとベートーヴェンの音楽、ヴェルディのオペラとのつながりをたどりながら、私の楽しみの世界は広がっていった。

バスティアニーニの魅力は何よりもその声にある。私の最も好きな楽器であるチェロの音色にも通ずる深く気品のある響き、バリトン役の(とりわけヴェルディの)光と影をこれほどまでに映し出すことのできる声は、その後今にいたるまで聴いたことがない。「ブロンズとビロードの声」(G.シミオナート)とはまさに至言である。しかもその歌唱は、いかなる場合にも品格を失うことはない。敵役・悪役の多いバリトンだが、バスティアニーニに歌われることによって、それらは、単なる悪役にとどまらない、愛と理想、裏切りや妬み・邪まな心、そしてそれらの狭間で揺れ動き苦悩する人間そのものを現出させることになる。往々にして単細胞的なオペラのヒーロー(Ten.)、ヒロイン(Sop.)とは一味違った深い陰影をもった人間像に、また、歴史に翻弄されるだけでなく果敢にそれに挑もうとする人間のドラマに、私は惹きつけられていたのかもしれない。

バスティアニーニに出会ったのは、高校1年から3年にかけて。その頃の私は、生徒会活動やクラブでの合唱・オペレッタに熱中する一方で、ロマン・ロランやマルタン・デュ・ガールなど、ヨーロッパの両大戦間の文学作品をつうじて、そこに描かれた戦争と人間のあり方に関心をもちはじめていた。なかでも、世の中が平和な時代から戦争へと傾斜していくにつれ、人々が熱狂的に戦争賛美へと傾いていき、平和だ、社会主義だと言っていた人たちまでが好戦主義者になっていくのはなぜなのか、戦争に抵抗する人間像に共感しながらも、もしも自分がそんな時代に生きていたら、彼らのようにその風潮に抗って人間らしい生き方を貫くことができるのだろうかと、言いようのない不安と恐れを感じていた。

進学に際して社会学部を選んだのも、漠然とではあれ、大学で人間や社会について学びたい、その疑問に自分なりの答を見つけたいと考えたからだった。社会調査ゼミナールの実習で長崎被爆者の生活史調査に参加したことがきっかけとなり、その後今日に至るまで、被爆者の生活史調査、被爆者運動(1980~)、そして被爆者に「自分史」を書いてもらうとりくみ(1992~)へと、37年にわたって被爆者たち(被爆者問題)と関わりつづけてきた。人が人間として死ぬことも生きることも許さない原爆”地獄”を体験し、身体も心も傷つけられながら、自分たちのような苦しみを二度と世界の誰にも味わわせたくないと願いつつ生きてきた被爆者たち。その死と生から、私は、この時代に人間らしく生きようと願うなら、その条件を根底から崩壊させてしまう核兵器と戦争に抵抗しながら生きるしかない、ということを教えられてきたように思う。

人間が生きるとはいったいどういうことなのか、自らの生き方を模索する青春時代のただなかで出会ったバスティアニーニ。思えば当時、彼はすでに病魔に侵されていたわけだが、人生の最も多感な時期にその芸術の最後の輝きにふれることができ、人間的な感性を深く掘り起こされたことは、私にとって何より幸せなことだった。それからの人生を、あるときは高く、またあるときは微かにではあっても、いつも通奏低音のように響いたバスティアニーニの歌が、そして、そこから広がりつづけた音楽や文学の世界が、どれほど豊かなものにしてくれたかは、測り知れない。

バスティアニーニの死の報を聞いたときから、いつの日にか、彼の生れたシエナと終焉の地シルミオーネを訪ねてみたい、というのが私の”夢”となった。長い年月をへて、この夢は思いもかけぬ形で実現することになった。2003年秋、被爆者問題の研究会のため大学に行き、そのついでに、昔よく通ったレコード店に顔を出した。それがきっかけでバスティアニーニ研究会と縁の地をめぐるツアーについて知ることとなり、翌春のツアーに参加することができたのだ。

子どもの頃の彼が毎日走り回ったであろう路地を歩き、墓参りをしたシエナでは、パリオの情熱を内に秘めた中世さながらの静謐な街並みに彼の芸術に流れるものとの共通点を感じ、シルミオーネでは別荘前に広がるガルダ湖を眺めながら、最期の療養の日々に思いを馳せた。翌朝、マントヴァへ向かうバスのなかに、バスティアニーニの声が響きわたった。これまでくり返し聴き慣れたCDのヴェルディ オペラ・アリア集だが、ここで聴くのはまた格別で魂が揺さぶられるようだった。「トロヴァトーレ」、「椿姫」と歌いすすみ、「仮面舞踏会」のレナートのアリア「おまえこそ心を汚す者」の中間部、ハープのアルペッジョが始まったちょうどそのとき、バスは小さな川にさしかかった。両岸に桃の花が咲き若草の萌える春の小川の中央には、白鳥が二羽泳いでいた。あっという間の光景ではあったが、私には、バスティアニーニの”O dolcezze perdute, o memorie”がまるで彼の「白鳥の歌」であるかのごとく聞こえ、その場面が瞼に焼きついたのだった。

バスティアニーニ縁の地を巡る旅は、彼の人と芸術をもう一度思い返し聴きなおしてみる絶好の機会となった。同時にそれは、被爆60年、戦後60年の節目を前にして、私自身の人生の源流をもういちどふり返り確かめてみることにもつながったように思う。

夢は願いつづければ実現できる! 私の人生にまた一つ、バスティアニーニはかけがえのない贈り物をしてくれた。

間もなくバスティアニーニの没後40年がめぐってくる。この機会に、何とかして、彼の「トロヴァトーレ」来日公演のDVDを発行してもらうことはできないものだろうか?――これが、目下のところの、私の”夢”だ。