後半
7月にスタジオ録音をスカラ座でふたつ行っている。『椿姫』と『イル・トロヴァトーレ』である。バスティアニーニはこの演目は頻繁に舞台で歌い、幸いライヴ録音盤にそれぞれ名盤があるが、前年のスカラ座での『ドン・カルロ』スタジオ録音盤と同様、大変意義がある。バスティアニーニのベストオペラ、ヴェルディバリトンと言わしめる、彼にしか歌えないオペラの世界を築いた芸術作品をスタジオで録音され残せたからである。他にも『リゴレット』『仮面舞踏会』『運命の力』『アイーダ』はライヴ盤と共にスタジオ盤が残されていたことは良かった。迫真のライヴ盤は勿論貴重な音源として聴けるが、1950年、1960年代当時、ライヴ盤は一般には販売されず、スタジオ録音された正規の盤でしか殆どの人々は楽しめなかったからである。長く正規の録音盤を基準にオペラ歌手を紹介していたし、多くのファンはそれらの録音盤でどれほどオペラを楽しみ、またバスティアニーニの歌声に魅了されてきたことかは計り知れない。<声と歌唱><ライヴ録音とスタジオ録音>で書いたが、バスティアニーニが舞台で歌ったヴェルディ作品は『オテッロ』以外、全て音源として残った。全てスタジオ録音盤ではなく、『ナブッコ』『エルナーニ』『レニャーノの戦い』はライヴ録音のみであった。ともかくも1962年に彼の当たり役であった2作品が正規録音された。『イル・トロヴァトーレ』や『椿姫』はライヴ盤で多く名盤として残されたがしかしもし、この2作品にスタジオ録音がないとすれば、バスティアニーニ本人にとっても、私達オペラファンにとってもなんとも惜しいこと、痛恨の思いになるのは想像にかたくない。 バスティアニーニのスタジオ録音は結果としてともかくも彼の人生の記録では間に合ったのだった。 実際2作品は完璧な出来映えであった。特に『イル・トロヴァトーレ』はライヴ録音のどれと比較しても、バスティアニーニは全篇完璧な歌唱、声、魅力に溢れている。他の歌手達も秀逸で、特にカルロ・ベルゴンツィは彼自身の録音においても最高水準に入るだろう。
(写真は「イル・トロヴァトーレ」スタジオ録音時、左は名指揮者トゥリオ・セラフィン)
『椿姫』は歴史的名演として残された1955年のスカラ座公演マリア・カラス、ディ・ステーファノ共演ライヴ盤と1956年スカラ座公演マリア・カラス、ジャンニ・ライモンディとのライヴ盤は最高のヴィオレッタとジェルモンであった。他に1955年リチャード・タッカー、リチア・アルバネーゼのライヴ盤の歌唱は、バスティアニーニはもとより、タッカーも見事な美声であった。アンナ・モッフォとの1964年ウィーンでのライヴ盤もあるが1964年であったことから、バスティアニーニのジェルモンとしては納得いく歌唱ではなかった。 この『椿姫』スタジオ盤はレナータ・スコットとジャンニ・ライモンディとのイタリアオペラ界の実力スターの共演で、安心してオペラに聞き惚れる名盤となった。 7月31日、8月4・11・20・25・30日ザルツブルク新祝祭大劇場で『イル・トロヴァトーレ』を歌う。レオンタイン・プライス、フランコ・コレッリ、ジュリエッタ・シミオナート、そしてヘルベルト・フォン・カラヤンの公演で、ライヴ盤は多くの盤がリリースされて存在している。熱気ある歌唱、火を吹くような公演である。多くのバスティアニーニのルーナ伯爵でどれも素晴らしいがこの公演を聴くと、誰もが他の歌手のルーナでは満足できないと思われるだろう。もし他のバリトンのルーナ伯爵が良いと思われるならそれはバスティアニーニの歌唱を聴いていない方だと思う。それほどライヴ盤の中では決定盤である。丁度マリア・カラスのノルマを他のソプラノのほうが良いと思われるのは、カラスの歌唱をまだ聴いていない方だと思うのと同じである。
バスティアニーニのシエナでのスーツ、ポロシャツ姿の映像 シエナの8月16日のパリオにバスティアニーニの地区パンテーラは出場できた。本レース以前から出場チームや馬の抽選会、各地区のカピターノ(隊長)紹介や地区の食事会の様子がドキュメント風にまとめられたイタリアRAIのフィルムがある。その中にバスティアニーニがパンテーラのカピターノとして紹介され、彼がコントラーダ(地区)の人々と食事し、パンテーラの歌(地区の歌)を歌う様子が収められている。他にも僅かだがシエナのパリオについてインタヴューに応じる肉声もある。凛とした立ち姿と肉声の美声にため息が出る。ザルツブルク公演の合間を縫って、シエナでの多忙な充実した日を過ごしていた。彼はこのような美声の話し声だったのだ。
9月2日から1ヶ月間ウィーンで6公演出演する。2日、20日の『トスカ』はアントニエッタ・ステッラとフランコ・コレッリというキャストである。9月4日は『仮面舞踏会』を、これもステッラと歌っている。7日は『カルメン』でドン・ホセは古くからのオペラファンなら記憶にあるかもしれないが、1966年頃ではなかっただろうか、日本にスラヴオペラが招聘され、チャンガロヴィッチやギュゼレフと共に来日したリュボミール・ボドゥロフというテノール歌手がいた。このテノール歌手との共演である。筆者は17歳頃だったが『ボリス・ゴドノフ』『エウゲニー・オネーギン』『イーゴリ公』『売られた花嫁』の放映番組を食い入る様に見、また『イーゴリ公』は舞台公演を見、特別演奏会にも出かけた。当時29歳のニコラ・ギュゼレフの独特な錆のある深いバスの声に聞入ったものであった。ボドゥロフは来日公演より数年前にこうして活躍していたと知りなんとも懐かしい。11日は『ドン・カルロ』で『仮面舞踏会』と同じステッラ、シミオナート、フェルナンディとで歌っている。音源のないのが、また映像のないのが惜しい。9月23日は『アイーダ』である。レオンタイン・プライス、ジュリエッタ・シミオナート、そしてロヴロ・フォン・マタチッチの公演でライヴ盤に残されている。先に書いたスラヴオペラ来日公演でこのマタチッチが指揮をしていた。バスティアニーニのアモナズロは彼がオペラをスタジオ録音した初めての作品である。1954年であるが、一般に出ていなくて長い間入手は困難であった。多くのファンが聴いていたアモナズロはこのウィーンのライヴ音源であった。ライヴの熱気とバスティアニーニのアモナズロ像に十分満足できる。 一連のウィーンでの出演を終えて10月初めから11月末近くまで2ヶ月間アメリカツアーに出向く。 疲労と咽頭のことが気に懸かりながら、ともかく公演の歌唱は力強く、且ついつものバスティアニーニの美声で歌えたことだっただろう。ふたつのスタジオ録音盤や7月のザルツブルクの歌唱からも窺える。7月31日のザルツブルクでの『イル・トロヴァトーレ』は今までの胸の透くようなリズムが迸った旋律に見事に乗り切った声に、更に渋みといおうか、円熟の声に怖さ、凄みが加わった様に思える。咽喉の調子はどうだったかわからないが、凄い迫力の歌唱と声で歌った公演はさらに続く。
アメリカツアーのデータは、ボアーニョの1991年の著書と比べると、同じ著者だが2005年著書「ETTORE BASTIANINI I suoi personaggi」の方がアメリカツアー公演出演データ数は多く記述されている。10月2日サンフランシスコで『イル・トロヴァトーレ』、6日はロサンゼルスで『イル・トロヴァトーレ』、13日サンフランシスコで『道化師』をマリリン・ホーンとデル・モナコと共演、これはライヴ盤でも聴ける。24日も出演する。21日はサクラメントで『道化師』を、26日はサンフランシスコで『ラ・ボエーム』を、これもヴィクトリア・デ・ロス・アンヘレスとマリリン・ホーン、シャンドール・コンヤでライヴ盤が残っている。27日はロサンゼルスで『カルメン』を31日は『道化師』を歌う。11月2日『カルメン』、4日『イル・トロヴァトーレ』、6日『トスカ』、10日『イル・トロヴァトーレ』を歌い、その間の8日はサンディエーゴで『イル・トロヴァトーレ』を歌っている。
シカゴの『リゴレット』そして11月17日から21、23、26日と4回シカゴで『リゴレット』を歌っている。ライヴ盤に残された唯一のリゴレットである。凄まじい力、渾身の歌唱、深くて強い声、長い息、怨念を晴らすような叫びにも感じられるほどの強烈なリゴレットである。誰もこれほど大きな強い声で、しかも長く伸ばされたリゴレットは歌えないだろう。バスティアニーニのリゴレットはこのような舞台であったのかと重く深く聴きとめた。スカラ座のリゴレットはどうであったかはわからないが、全体を通して見ると私はこのシカゴ公演と大きな差はなかったのではないかと考えている。だがこうも考える。スカラ座公演の野次の悔しさを晴らすこと、バスティアニーニはこんなに歌えるのだと訴えたかったのではなかったのか。そしてまだ自分はこんなに歌えるじゃないか、という自分自身の声へのテスト・試しと確認そして挑戦の心理が動いていたのではと考えている。 また同時期のサンフランシスコでの『道化師』『ラ・ボエーム』のライヴ盤が音源として残されている。勿論『リゴレット』の迸る怨念パワーで歌う作品ではないが、『道化師』トニオのプロローグはいつもの美声に深みと凄みが加わった、しかもたっぷりとしたスケールの大きい歌唱であった。レオンカヴァッロの音楽性、すなわち品格と人生の憂愁まで滲み出させていた。そしてトニオのふざけた身振りで歌い演技するバスティアニーニは観客をなんと笑わせることができたと、共演していたカニオのデル・モナコは驚きを持って語っていた。また『ラ・ボエーム』では善良な恋する青年マルチェッロを生き生きと歌い演じている。
癌の診断アメリカ滞在中、バスティアニーニはニューヨーク在住のイタリア人医師ルイージ・ペッロッタの診察を受ける。医師は多くの歌手たちと交友があり、信頼を寄せられていた人だったのだろう。筆者はこの医師がフィオレンツァ・コッソットに語った診察についての話を彼女から話して頂いていた。医師は咽頭癌であるのは間違いないことを告げたようだ。しかしそれは手術をすれば直る、命は助かるのだ、と熱心に彼に説いた。だが話す声は残っても歌う声、今までの美しく響く歌手の声は残せないことを告げた。バスティアニーニは歌う声、美しく響く声を失うことに、躊躇せざるを得なかっただろう。ともかく今の段階では手術はしないことをこの医師にはっきり伝えたそうだ。ただコッソットさんからは、この診断がいつであったかは、もはや正確には特定できないように感じた。彼女はこの話しを、アメリカで移動中の列車に同乗した折に聞いたのだと言われた。
ボアーニョの2005年発刊の本によると、バスティアニーニはシカゴ公演を11月26日まで歌っている。12月7日のスカラ座オープニング公演『イル・トロヴァトーレ』を12月7、10、13、16、20、23、30日に歌い通している。ステッラ、コレッリ、コッソット、ガヴァツェーニ指揮である。この公演のライヴ音源から、バスティアニーニの変わらないコレッリとの白熱した重唱やルーナ伯爵の恋に身を焼くいつもの彼の名唱が聴ける。
さてアメリカツアーから戻った後、バスティアニーニの人生で最も重要な人マヌエーラに別れを告げる日が迫りつつあった。彼はマヌエーラを失いたくないのに、断念するという悲痛な思いと戦っていた。 アメリカでの診察から病気の治癒への道が閉ざされていく。声の維持への執念のように、バリトン歌手が鬼になったような迫真のリゴレットやルーナ伯爵を歌い演じた。これらの公演を歌いとおしながら、マヌエーラへの愛に大きく揺れ悩みながら、別れの決意を固めていったのだろう。4度目のスカラ座初日を飾る栄誉に輝いたバリトン歌手、得意のルーナ伯爵は今もライヴ盤で聴くことが出来る。板についた、充実したしかも緊張感溢れる見事な歌唱であった。しかし最後のスカラ座シーズン開幕初日公演出演となった。
1958年と相反した1962年、声と歌唱の変化 1958年はバリトン歌手としてキャリアの頂点に達し、プライヴェートな面で多くのことが展開した。マヌエーラとの出会い、パンテーラから信望を寄せられ、カピターノに推薦されたこと、父親の出現と別れがあった。息子イアーゴはまだ13歳という難しい年齢ながら、キャリアと恋とシエナのパンテーラでカピターノとなったことなど、バスティアニーニの人生にとって幾つもの理想・夢の支柱が見事に現実に形となった年であった。 彼の声は1960年頃から少しづつ声に深さ、渋さ、凄みが加わってきたと筆者は感じていた。マヌエーラとの愛は順調に深まり、危惧していた彼女の家、家族との信頼を築く幸せを実感したことだろう。パンテーラのコントラーダの人々との繋がりにも彼は喜びと誇りを味わっていた。歌唱に深みが加わったことは、これら人生の広さ、深さを実感し、歌唱表現に加えていったのではないだろうか。人生の明るい展望への喜びと余裕から表現の深さに及んでいったのではないかと筆者は考えている。
だが大バリトン歌手にとっての充実は全て、マイナスに向かうかもしれない程のサインを出させる多忙・疲労との表裏一体であった。 1958年以降は歌手活動だけでなくパンテーラの仕事、母親との交信といおうか、気配りなどの物理的な疲労、イアーゴとその母のことなどの心労があっただろう。その上に徐々に自分自身の健康が蝕まれ、身体の疲労感となって表れだしてきたのが1961年頃からではなかったのだろうか。まだ身体が健康であった時は歌唱表現がプラスに作用したが、予期せぬマイナス面が潜み動き出していた。疲労と声の調子の変化を彼は気づいていたのではと考える。バスティアニーニは、先に挙げた幸せから来る心の余裕を歌唱に幅と深さを加えて表現したと書いた。これはその通りだと考える。だがもう一面もあったのではと想像する。1959年頃までの従来の美声に加えてレガート、卓越した歌い回しが、以前のようにたやすくできなくなったことをキャッチし、心の余裕から加えた歌唱表現の深さ、力強さ、凄みを更に全面に出していったのではないだろうかと推測する。
そのような中で1962年には咽喉の違和感と実際に疾病を認識する。シカゴの『リゴレット』などは1961年頃までの歌唱表現のうえに、まだこんなに声が出るのだ、と試しかつ挑戦しているように筆者には映った。
1962年末までがバスティアニーニのピークであった。それまでどれほどハードであり、心身の疲れを犠牲にして成り立っていたことが見えてきた。勿論スカラ座、ウイーン国立歌劇場、メトロポリタン歌劇場、アメリカツアー、ザルツブルグ祝祭大劇場、サン・カルロ歌劇場、フィレンツェ・テアトロ・コムナーレ、ローマ・オペラ座等の燦然と輝くばかりの劇場から依頼を受け、バスティアニーニは多忙の中、充実感を味わいながら邁進していたのだろう。しかし、当時は世界の航空路線ネットは今とは比較に成らないほど少なかっただろうし飛行機の性能は50年も前の時代だから、どれほど疲れるかは想像が出来る。劇場に着いてオペラとはすぐに歌うものではなく、ゲネプロ(舞台リハーサル)も行う。まして新しい演目上演の際は多くのことを身につけなければならない。 1962年はパンテーラ以外が崩れていく始まりの年、苦悩の始まった年であった。それでもまだ1962年は従来のバスティアニーニの美声に深さ、表現の凄みが加わった歌唱を十分に披露できたが、翌年からは声そのものと格闘する苦悩が始まる。 |